大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和43年(オ)1027号 判決

上告人

山木サカエ

訴訟代理人

山口定男

被上告人

倉成郁子

外七名

訴訟代理人

三原道也

主文

原判決中上告人敗訴部分を破棄する。

前項の部分につき、被上告人らの控訴を棄却する。

控訴費用および上告費用は被上告人らの負担とする。

理由

上告代理人山口定男の上告理由第一点について。

原審は、訴外倉成粂吉が昭和二四年一一月六日死亡し、訴外倉成タツが同人の妻として、訴外倉成敬二郎、第一審被告佐護キヨ、同倉成喬および上告人が粂吉の子として、第一審被告倉成実、同倉成安正が粂吉の子訴外倉成幾男(昭和二〇年五月八日死亡)の子として幾男を代襲してそれぞれ粂吉の遺産を相続したこと、第一審判決別紙目録(一)および(二)記載の物件(ただし、同目録(二)記載の物件は同目録(一)9記載の物件を含む。以下右(一)および(二)の物件を一括して本件不動産という。)は粂吉の遺産に属すること、したがつて、本件不動産につき、タツは三分の一の、上告人は一五分の二の共有持分をそれぞれ取得したこと、ところがタツは、右共有持分を昭和二八年一〇月一六日敬二郎に贈与したが(以下、本件贈与という。)登記未了のまま昭和三三年三月一九日上告人に遺贈し(以下、本件遺贈という。)、遺言執行者に井上周吉を指定する旨の遺言公正証書を作成し、昭和三四年三月一二日死亡するに至つたこと、他方、敬二郎はこれより先昭和三一年三月二七日に死亡し、被上告人倉成郁子が敬二郎の妻として、その余の被上告人らが同人の子として同人の権利義務をその法定相続分に応じて承継したこと、そして、上告人が、本件不動産につき、昭和三五年三月一五日福岡法務局同日受付第六七二五号をもつて粂吉の死亡による相続を原因として共同相続登記をなすとともに、同法務局同日受付第六七二六号をもつて昭和三四年三月一二日付遺贈を原因としてタツの前記三分の一の共有持分の取得登記手続を経由したこと、以上の事実を適法に確定したものである。

所論は、要するに、本件贈与と遺贈とは不動産の二重譲渡と同様、その優劣は対抗要件たる登記の有無によつて決すべきであり、これと異なつた見解に立つ原判決は法令の解釈、適用を誤つたというものである。

思うに、被相続人が、生前、その所有にかかる不動産を推定相続人の一人に贈与したが、その登記未了の間に、他の推定相続人に右不動産の特定遺贈をし、その後相続の開始があつた場合、右贈与および遺贈による物権変動の優劣は、対抗要件たる登記の具備の有無をもつて決すると解するのが相当であり、この場合、受贈者および受遺者が、相続人として、被相続人の権利義務を包括的に承継し、受贈者が遺贈の履行義務を、受遺者が贈与契約上の履行義務を承継することがあつても、このことは右の理を左右するに足りない。

ところが、原判決は、右の場合、受贈者および受遺者は、もはや、他方の所有権所得を否定し、自己の所有権取得を主張する権利を失つたものと解すべきであるとして、本件遺贈の効力を否定したが、右は法令の解釈、適用を誤つた違法なものであつて、この点の違法をいう論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。

そして、前記事実関係のもとにおいては、被上告人らは、本件贈与をもつて上告人に対抗することができず、また、原判決が適法に確定した事実関係に徴すれば、上告人が本件贈与の登記の欠缺を主張するのは権利の濫用である旨の被上告人らの主張が理由のないことは明らかである。それゆえ、上告人は、結局、本件不動産につき一五分の七の共有持分を取得するに至つたものというべできである。

したがつて、第一審判決別紙目録(一)記載の物件につき上告人が一五分の七の共有持分を有することを確認する旨の上告人の本訴請求は、正当として認容すべきであり、また、被上告人らの反訴請求は、失当として棄却すべきであつて、これと同趣旨の第一審判決は正当であるから、原判決中上告人の敗訴部分を破棄し、右部分についての被上告人らの控訴を棄却すべきである。

同第二点について。

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして肯認することができる。右認定の過程に所論の違法は認められない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実認定を非難するものであつて、採用することができない。

よつて、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(関根小郷 松本正雄 天野武一)

上告代理人山口定男の上告理由

第一点

一、原審判決は、民法一七七条ならびに遺贈に関する民法の解釈適用を誤り、審理不尽、理由不備の違法をおかしたものである。

原審判決は、その理由一、二記載のとおり倉成タツの倉成敬二郎に対する贈与契約及び倉成タツの上告人山本サカエに対する遺贈は二重護渡の関係にあると認定しながら、倉成タツより上告人に対する所有権移転登記はタツ死亡後なされたものであるから無効であるとして、その実体に副う登記を具備しておるにも拘らず、上告人の本件土地、建物に対する所有権取得を排斥した。

しかしながら、親が、その所有不動産を長男に贈与し、更にまたこれを長女に遺贈したような場合、長男、長女の優劣が制度の本質上対抗要件たる登記の具備如何によつて決せざるを得ないことはいうまでもない。

その理は、親の死亡前も、死亡後も何等変りはない筈である。親が死亡して相続が開始された場合、長男、長女いずれも包括承継人としての地位に差異はないのであつて、まさに二重譲渡の場合に該当し、民法一七七条はかかる時にこそ、その機能が発揮されるべきものである。

二、原審判決は「一般に不動産の二重護渡においては、譲受人が譲渡人の法定推定相談人である場合でも、譲渡人の生存中には民法一七七条の適用をみることは論を俟たないところであるが、譲渡人が死亡し、その遺産相続が開始した場合には、相続人たる譲受人は譲渡人の地位を包括承継し、譲渡人の他の譲受人に対する所有権移転の登記義務を承継する結果、もはや他方の所有権取得を否定し、自己の所有権取得を主張する権利を失つたものと解するのが相当である」という。

しかしながら、それは他方の譲受人が譲渡人と何ら身分関係がなく、譲渡人の包括承継人でも何でもない全くの第三者の場合にいうべきことであつて、本件の如く、二重譲渡における譲受人がいずれも譲渡人の相続人であつて、包括承継人としての地位に差異がない場合には前記見解は妥当せず、典型的な二重譲渡の場合と何等変るところはないといわねばならない。

この場合、原審判決のように、譲受人いずれも自己の所有権取得を主張する権利を失つたと結論するのは余りにも飛躍した議論であつて、登記制度を無視するも甚しく、実体に副つた登記を具備する譲受人があれば、これを保護するのが制度本来の趣旨というものであろう。何も敢て、譲渡人の行為をいずれも無効のものとして、親の子に対する意思表示を無視、否定するまでのことはないのである。

もし原審判決のいうところに従はんか、いつたん親が長男に不動産を贈与すれば、それが未登記で未だ完全な物権取得の効果が与えられていないにも拘らず、もはや他の子供に贈与もしくは遺贈することは不可能であつて、親にかかる行為をする自由を許さないという結論となる。これは理由なく私人の法律行為の自由を制限するものである。長い人生の過程において、親が自己の財産をどの子に与えるかにつき、しばしば思を変えることがあるのも尤もなことであろう。

登記を具備しない物権変動が競合する場合、いずれか登記を備えて完全な物権変動となせば、これを保護してしかるべきではあるまいか。

三、さらに本件の場合、タツより上告人に対する譲渡は遺贈であつて、しかも遺言執行者が指定されており、敬二郎に対する譲渡が通常の贈与であるのと全く異なつていることを看過してはならない。

通常の贈与の場合、贈与者の協力なしには所有権移転の登記は不可能であるが、遺贈の場合遺言執行者があれば、遺言執行者が相続人の代理人として、その登記義務の履行をなすのであつて、所有権移転の登記は常に可能で、通常の贈与と異なり、登記手続完了の措置が法的にも講じられておるのである。

もともと遺贈の場合、これによる所有権移転登記が遺言者の死後になされることはもちろんであつて、原審判決の如く、遺贈による所有権移転登記が遺言者(被相続人)の生前になされていないから、その効力がなく、遺贈はなかつたものとして取扱われるべきであるとするのは、法律を知らざるも甚しく、全く唖然とするほかない。

かくの如く、本質を異にする生前贈与と遺贈とを何等区別することなく、同一に論ずる原審判決が誤りであることは明白であろう。

四、原審判決は「敬二郎の死亡によりタツの遺産を代襲相続した被上告人郁子を除く、爾余の被上告人は、タツの包括承継人として、前記贈与による自己の持分取得を上告人に主張する権利を失つたものといわねばならない。」というが、これは当然のことである。

しかしながら、被上告人郁子を、爾余の被上告人と別異に取扱うべき根拠は全くない。被上告人郁子は敬二郎の包括承継人であつて、敬二郎が有していた以上の権利を承継する筈がなく、敬二郎の生存、死亡の如何によつて被上告人が敬二郎より承継取得した権利の内容が変化を受けるということはあり得ないところである。もともと敬二郎は未だ完全な所有権者ではなかつたのであつて、被上告人郁子のみが登記なくして、上告人に対し、敬二郎の贈与による本件土地、家屋の所有権取得を対抗できるなど到底考えられないところである。原審判決は、登記なくして物権変動を主張し得る、その理由、根拠を何等示しておらず、この点法律に基かずして判断したとのそしりを免かれないであろう。

五、さらに原審判決は「上告人はタツの相続人であるから、自己の遺贈による持分取得を敬二郎又はその相続人である被上告人らに主張する権利を失つた」とするが、これは「甲が乙に山林を譲渡したのち、これを二重に自己の相続人丙に贈与したが、いずれも移転登記未了の間に甲が死亡し、丙が相続した場合、丙は相続前贈与による所有権をもつて第三者に対抗し得なかつた関係上、右贈与がなくして相続が開始された場合と同一の立場になるとした」昭和三五年三月三一日広島高裁判決(高民集一三巻二号二三七頁)を何等批判、検討を加えることなくそのまま踏襲したものとしか考えられない。

本件と右広島高裁の判決とが根本的に事案を異にすることは生前贈与と遺贈、遺贈と登記に関連して先に述べたとおりである。判例を引用するについては、その結論のよつて来たる基盤としての具体的事実関係を十二分に考慮すべきであつて、己れの一方的予断にたまたま結論のみを同じくする判例のあることを奇貨として、その一部分に盲目的にとびつくことは裁判において最も忌むべき事柄であつて、国民の納得を得る所以でないことをかみしめるべきである。

六、本件の場合、上告人と被上告人等のどちらを保護するのが妥当かという見地から考えてみても、親の子に対する意思として、タツの上告人に対する遺贈が尊重されるべきであつて、このことは以上述べたところからしても自から明らかであろう。

過去仮にタツが、栄屋再建ということからして、敬二郎に自己の財産を譲渡せんとしたことがあつたとしても、敬二郎はタツに生前何等孝養を尽くすこともなく疏遠の間柄であり、自己の野望のためにタツの財産を手中にいれるや、ぎやくたいに終始する態度に出たもので、タツとしては、死に臨み終始一貫して手厚い看護をつくし、見守つてくれた上告人に対し、自己の財産を譲渡することを切に望んだものである。

かくて敬二郎に対しては生前贈与の公正証書は作成しても登記を与えなかつたのであるが、上告人に対してはタツ自らの意思により遺言執行者を指定し、登記手続を完了する法的措置を講じておいたのである。

タツの意思として、この最終的、確定的な上告人に対する遺贈の意思を尊重し、これを優先させるべきことは、情理においても、法律の規定の趣旨からしても当然といわねばならず、原審判決は親の真情を無視、冒するも甚しいものがある。現在各相続人と被相続人との親疏につき考えるとき情理の帰するところはいわずして明白であろう。 〈以下略〉

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